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    <title>不定期語録 （もーり）</title>
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    <pubDate>Tue, 04 Jul 2006 02:33:22 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>テレビくん修理</title>
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      <pubDate>Wed, 01 Feb 2006 02:01:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2006-07-04T02:33:22+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2006-07-04T02:31:28+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
買えば高そうな液晶テレビ（小型）を、格安で入手した。なぜ格安かというと、音が全然出ないからだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さっそく分解して見てみると、回路まわりは特に問題はなさそうで、スピーカーを換えれば何とかなりそうだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
そこでメーカーのサービスステーションで部品を取り寄せ、交換してみると、あっさり直ってしまった。ラッキーですにゃ～（￣▽￣）～。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
というわけで、小型テレビくんは研究室で活躍中です。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>日記</dc:subject>
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    <item>
      <title>限界効用逓減のサクランボ</title>
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      <pubDate>Fri, 15 Jul 2005 07:15:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-19T23:48:04+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-19T23:48:04+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
私は缶詰のサクランボがお気に入りだったりする。&#13;&lt;br&gt;
とりわけ好物という訳ではないし、すこぶる美味だと思っている&#13;&lt;br&gt;
訳でもないけれども、料理やデザートの中で見かけたら&#13;&lt;br&gt;
つい食べてしまう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ある日、近所のスーパーでサクランボの瓶詰めが特売されていた。&#13;&lt;br&gt;
迷わず購入！&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
パインやミカンの瓶詰めもあり、それらは結構売れていたのだが、&#13;&lt;br&gt;
なぜかサクランボだけは大量に売れ残っていた。どうしてだろう？？&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
その理由は、これを購入して賞味して判明した。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
サクランボだけ半分も食べると飽きた・・・(´Д`&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>日記</dc:subject>
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    <item>
      <title>小学校の給食</title>
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      <pubDate>Fri, 01 Jul 2005 07:01:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-12T23:27:53+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-12T23:27:53+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
調査の関係で埼玉県の小学校へ行って来た。運動生理学の先生が実施する調査に参加したもので、私は児童への聞き取りとの保護者へのアンケートが担当だったりする。児童の生活習慣の実態を把握するのが趣旨で、アンケートや担任の先生の所見とも付き合わせて分析・検討する。全校児童の聞き取りを終えるまでに３日かかる、体力勝負な調査であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
お昼は給食が出た。小学校の給食は、卒業してしまえば食べる機会は全くなくなってしまうので、そういう意味では実に懐かしい。本日のメニューは、コッペパン、焼きそば、ナゾの汁物、紙パックの牛乳、アイスであった。パンには切り込みが入っていて、焼きそばパンにして食べるらしい。アイスは「学校給食アイス」と銘打ってあったが、市販のものと同じであった。（ちなみに、配膳されるまでの時間の関係か、大福アイスの内部はドロドロに溶けていた。）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
自分が小学生だった頃の牛乳はビン入りだったし、パンに切り込みなんて入ってなかったし、アイスなんて一度も出たことはなかったので、昔の記憶とはちょっと違う。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それでもやはり、何となく懐かしかった。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>日記</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>超高級な茶</title>
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      <pubDate>Wed, 29 Jun 2005 06:29:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-19T23:34:33+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-19T23:34:33+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
中国に留学経験のあるＷ氏は、大のお茶フリークだ。日々、様々な種類のお茶を嗜んでいる。&#13;&lt;br&gt;
今日Ｗ氏が奮発してくれたお茶は、中国でも最高級と目される銘柄で、一杯あたり軽く500円以上するらしい。これを横浜中華街の専門店とかで入れてもらうと、もっと高い値段がつくのだという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
見よ！一杯500円の茶の勇姿を！(｀∀´)&lt;br&gt;
</description>
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    </item>
    <item>
      <title>認識</title>
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      <pubDate>Wed, 15 Jun 2005 06:15:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-19T23:30:41+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-19T23:30:41+09:00</dcterms:created>
      <description>　　&#13;&lt;br&gt;
あらゆる認識は、その主観のあり方や条件に従った構成物すなわち観念に過ぎない。我々の認識は、鏡がものを映すように、実在をそのまま映したものではなく、それを認識する主観の制約を受けなければならぬ。科学の発達は、我々の感覚では別のものとして捉えていたものを同じものとしたり、同一種類に属すると思っていたものを別の種類に属するものにしたりした。その限りにおいて、科学はものの客観的真実を明らかにしてくれる。ここに科学的実在論の根拠がある。我々の認識は、鏡がものを映すようなものではないにしても、科学的研究によって、少しづつでも真の存在に接近していかなければならない。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
しかし、今日のところ、宇宙の広大無辺からすれば、人間の科学のとらえた真実もほんの断片に過ぎないのであって、科学による究極の真実は、まだまだ先の彼方にあると言って良い。さらに、それさえも根本的に人間の在り方に制約されているのだ・・・。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
このように考えると、我々人間にとっては、まだ知られていないものに対して常に畏れを抱くことこそふさわしい。そこに宗教の本源もあるわけだが、哲学の立場としても、そういう知られないものに対する畏敬の感情と結びつくような立場が、認識論の面から言っても倫理の面から言っても、今日なお依然として大きな意味を持っているのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それにつけても焼きそばのうまそうなことよ。ぐびびっ。∑(￣□￣;)&lt;br&gt;
</description>
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    </item>
    <item>
      <title>友子一家</title>
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      <pubDate>Wed, 01 Jun 2005 06:01:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-12T23:00:34+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-12T21:58:52+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
うちの近所を根城にしている友子をしばらく見かけないと思っていたら、仔猫２匹を引き連れて舞い戻ってきた。友子もこないだまでは小さかったはずなのだが、もう母親になっている。ネコの成長は早いものだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、仔猫が生まれたからには名前をつけなければならぬ。近所にはオス猫の太郎、次郎、三郎にメス猫の花子がいる。どんな名前がいいのだろう。&#13;&lt;br&gt;
しばらく考えた末、マイケル（淡茶色の方）とムーアということに決定・・・。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>日記</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>チャットにおける敬称問題</title>
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      <pubDate>Sun, 29 May 2005 05:29:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-12T22:54:21+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2005-08-12T22:49:45+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
チャットで発生するトラブルの一つとして敬称問題というのがある。簡単にいえば、チャットで相手を「～さん」という敬称をつけて呼ぶべきか否かという問題のことを指す。この問題は、特に子供と大人が混在するチャットで発生しがちである。なぜ問題になるのかというと、チャットで相手から「～さん」をつけて呼んでもらえないことを快く感じない人がいるからである。敬称問題の意味するところは一体何なのだろうか？ &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
まず確認しておかねばならないが、相手をバカにすることが目的で呼び捨てにする人は、今回の議論の対象外である。最初から仲良くする意志のない人との間で発生する問題は「荒らし問題」というカテゴリーで扱われるべきだからだ。また、「～さん」づけが義務として明示されているチャットで呼び捨てにする人も対象外である。これは「ルール違反」というカテゴリーで扱われるべきであり、わざわざ議論するほどでもない。ここで問題にするべきは、特に「～さん」づけを義務づけられている訳ではないチャットにおける敬称問題であり、「互いに仲良くコミュニケーションをとる意志はあるにも関わらず、その意志がうまく疎通できないために発生する諸問題」である。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
チャット空間で互いを呼び合う時、ごく親しい間柄ではいちいち敬称をつけるまでもない。親しい仲なら、いちいち敬称などつけて呼び合うまでもない。だが、それは両者の考えが一致しないと成立しない。チャットで敬称が必須と思っている人がいれば、そう思っていない人もおり、この認識の異なる二人がチャットを行えば問題が発生するだろう。また、下の者は上の者に敬意を払うべきという価値規範があり、同じファンという立場であれば平等という価値規範もある。チャットの参加者の間で、このどちらに重きを置いているかのズレがあれば、やはり問題が発生するだろう。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
したがって、チャットにおける敬称問題とは何かについての定義付けを行うと、以下のように整理出来ると思われる。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
・（参加者同士の）親しさの認識相違による摩擦現象・・・・(1) &#13;&lt;br&gt;
・（チャットという）空間の認識相違による摩擦現象・・・・(2) &#13;&lt;br&gt;
・（関係性に関わる）価値規範の認識相違による摩擦現象・・(3) &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
問題発生の具体例を見る限り、「年上が年下から呼び捨てにされたことによる不快感の発露」がほとんどを占めている。敬称問題と言っても、結局のところ、大人世代の子供世代に対する感情的な怒りに端を発しているのが実状である。年下から呼び捨てにされることは、かなりの不快感を呼び起こすものらしい。だが、チャットにおける敬称問題を論じるにあたっては、まず感情論を排さなければ始まらない。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
とりあえず、世代ごとの特徴を押さえておこう。主に小学生以下の子供世代は、物心がついた頃から既にインターネットがあった新世代である。反対に、主に20歳以上の大人世代は、ほぼ人格形成が終わってからインターネットが普及してきた旧世代である。中学生・高校生は、人格形成の途上でインターネットを使い始めた中間的世代であるが、中学生は子供世代に近く、高校生は大人世代に近い。インターネットの急激な普及期にあって、大人世代と子供世代ではインターネットに対する接し方が全く異なるのであるから、チャットに関する意識ひとつとっても大きな隔たりがあろうことは容易に推察される。チャットにおける敬称問題は、個人間の認識の相違はもちろん、世代間の認識の相違も大きな位置を占めていると言える。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
(1)「～さん」づけをしないのはマナーが悪いからか？・・・必ずしもそうとは限らない &#13;&lt;br&gt;
敬称問題は、たいてい年下が年上に対して「～さん」づけをしないところから発生している。一例を挙げると、小学生が社会人を呼び捨てにすることは無礼千万というのである。これをもって「小学生はマナー知らずだ」と嘆いている向きもあるが、それは実態を正確に説明しているのだろうか？ &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
なるほど、小学生は人生経験が浅いし、マナーの習得も発展途上であろう。だが、小学生は何も年上を年上とも思わないから呼び捨てにしているわけでなければ、社会人をコケにしているから呼び捨てで呼んでいるわけでもない。単に、同じファンとして敬称を省略しているに過ぎない。あるいは、親しみを込めて敬称を省略しているに過ぎない。ごく親しい間柄でいちいち「～さん」づけなどしないのは、古今東西を問わず普遍的に見られる現象である。&amp;quot;呼び捨て&amp;quot;と&amp;quot;敬称の省略&amp;quot;とは異なる概念なのだ。だから、マナーの習得一般と「～さん」づけするかどうかは別問題であって混同するべきではない。マナー一般については、別のテーマで検討すればよい。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どのくらいの会話を交わしたら（敬称を省略できるほどの）親しさを感じるかというのは、世代間・時代間によって大きな違いがある。世代的特徴として、一般に年齢が低くなるほど少ないコミュニケーション頻度で相手に親しみを感じるようになる。「知らない人についていってはいけません」と注意していても、子供にとっては少し話しただけで「知っているおじさん」になってしまい、誘拐事件に発展してしまう例を思い出されたい。また、時代的特徴として、昔ならただの「知人」に分類されていた関係の相手でも、「友人」としてひとくくりにされるようになっている。最近の子供はメールアドレスを交換しただけで「友人」が出来たと思っている。「友人」の定義が緩やかな方にシフトしているのだ。この流れの中で、チャットにおいて自己紹介をしあっただけで親しみを感じ、親しみを表現するために「～さん」付けを省略したとしても、ちゃんと筋は通っている。だが、この進展についていけない古い大人世代は面食らってしまうことになる。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
もちろん、理屈づくで敬称を省略するのではなく、単に「～さん」づけをする習慣がないからつけないというような例も多いだろう。この場合、いわゆる大人の感覚で判断すると「何てマナー知らずなんだ」ということになってしまう。だが、子供世代はもともと敬称の概念が希薄であるし、子供が主体になっているチャットでは、子供なりのチャット文化が形成されていることを理解しなければならない。大人の論理を振りかざして「マナー知らずの連中」と決めつけるのは、とても正しい理解をしているとはいえないのである。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
(2)チャットで必ず「～さん」づけをしなければならないのか？・・・ローカルルールによる &#13;&lt;br&gt;
チャット空間において、相手を「～さん」づけで呼ぶことは義務だとする思想がある。その思想に基づいて「～さん」づけをルールとして義務づけているチャットも存在している。実際問題として、その方が秩序を維持しやすいし管理上も容易である。それをもって、チャットでは「～さん」づけを義務づけるべきだという主張も存在するようであるが、全てのチャットを一色で染めるような考え方は感心しない。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
そもそも、チャットで敬称をつけるかどうかはローカルルールに属する次元の問題である。それに、義務ということになると、相手に敬意を表しましょうという積極的側面より、無用なトラブルを避けるための知恵という消極的側面の方が強くなってくる。うわべだけ「～さん」づけで呼ばせても本当に敬意を表しているかどうかは分からないし、「～さん」づけなどしなくても敬意を表することは出来るし親しみを表すことも出来る。その意味において、敬称を義務づけるチャットがあってもいいが、必ずしも敬称を義務づけないチャットがあってもいい。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ただ、その場合でも、初対面の相手に早い段階から敬称を省略すると呼び捨てと間違えられても仕方がないので、ある程度親しくなるまでは「～さん」づけをすることが推奨されるべきであろう。充分仲良しになり「～さんづけしなくてもいいよ」言ってくれた後なら、敬称を省略して呼んでも問題はないと思われる。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
(3)どの価値規範に重きをおくか？・・・これは世代間ギャップの問題だ &#13;&lt;br&gt;
「下の者は上の者に敬意を払うべきだ」という思想は普遍的である。だが、その思想が有効なのは、対象の差異が社会的に意味を持つ空間の中だけに限られる。例えば、学校のクラブ活動では上級生・下級生という年齢の差が意味を持つから、下級生は上級生に対して敬語を使わねばならない。会社組織では年齢よりも上司・部下という職階の差の方が意味を持つから、年上の部下でも年下の上司に敬語を使わなければならない。しかし、年齢や職階が意味を持たない空間に行けば、上も下もなくなってしまう。囲碁クラブにでも出かければ、みんな同じ立場で対局するわけだ。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
つまり、共通の趣味を持つファンが集まる空間においては、ファンクラブの会長と会員などといった別の役割関係でも入ってこない限り、同じファンとしての立場は水平的である。ファンとして平等だからこそ、共通の話題で盛り上がることが出来るのだ。「立場が同じであれば平等」という思想もまた普遍的であり、「同じファンであれば立場は同じ」であるがゆえ、「同じファンであれば立場は平等」なのである。（チャットで「～さん」づけを義務づける思想も、この水平的立場がバックボーンになっている。）よって、年齢差はそれほどの意味をなさない。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
加えて、チャット自体も年齢差があまり意味をなさない空間である。だから、趣味のファンサイトのチャットでは年齢差の意味がなくなっていても当然であるし、子供世代が主体のチャットではなおさらであろう。こう書くと誤解を招きそうなので補足しておくが、子供世代においても、学年の差＝年齢の差を確認すること自体はお互いの重要な関心事である。「私は中２。あなたは何年？」「私は小６！」などといったやりとりは、ほとんど挨拶代わりになされていることからもそれは伺える。ただ、年齢の差を確認することは、序列や上下関係を確定させることが目的ではない。年齢の差を確認した上で、ファンとして水平的な関係を維持しようとしているのである。中２であろうが小６であろうが、同じファンとして全く平等であり対等なのだ。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ところが、大人世代になると、年齢の差が確認されれば、その差異に応じた序列や上下関係を意識する傾向が認められるようである。つまるところ、自分の方がはるかに年上と言うことを相手が認識すれば、年下の相手が自分に対して一定の敬意を表することを期待するのである。しかし、相手は自分に対して一向に敬意を表さないばかりか呼び捨てまでしてくる（敬称の省略であって呼び捨てではないのだが）と感じるので、不快感を抱いてしまうのだ。世代間ギャップによる不幸な問題発生の瞬間である。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
以上のように論じていくと、「～さん」づけがないからといって単なるマナーの善し悪しで片づけられるほど単純な問題ではないことが分かる。敬称問題は、主に大人世代が問題にしているのだが、20歳の大人が20歳の論理と価値観を10歳児に適用して考えることだけは避けなければならない。また、10年前の10歳児と現在の10歳児では価値観が大きく異なっている。だから、現在20歳の大人が10年前の自分を思い出して現在の10歳児と比較することについても慎重であらねばならない。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
チャットに様々な年齢層の人がやってくるのは当然である。チャットでは年齢の差が重要な要素ではないと書いたが、決して年齢差が無意味という意味ではない。問題なのは、その年齢差にどのような意味づけが与えられるかである。子供世代の場合、年齢差を確認することは同じファンとして楽しむことの妨げにはならないと意味づけているのに対し、大人世代では、ファンとしての水平的関係は承知しつつも、年齢差が確認されたら相応の敬意が払われてしかるべきだというふうに意味づけているのかもしれない。まさに世代間ギャップである。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
問題解決のアプローチとして、以下のような方策が考えられる。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
子供世代に対しては、「チャットにはそれぞれのルールがあること」「別のチャットに行ったときには、そこで定められているルールに従うこと」を理解してもらえればとりあえず充分であろう。「～さん」づけがルールとして明記されているチャットに行ったときに、ちゃんと「～さん」づけで呼ぶことが出来れば、たいていの問題は回避出来ると思われる。そういうルールのないチャットでも、敬意を表してもらいたがっている相手には一定の敬意を表することが出来れば世渡り上手になれるのだが、それは将来における課題ということにしておいて良いと思われる。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
大人世代に対しては、ガキから呼び捨てにされた＝マナーがなってないといって短絡的に怒り狂うのではなく、世代間ギャップの問題についての認識を深め、いまどきの小学生のチャットコミュニケーションの実態を把握することに努めるべきである。特に、20歳以上の世代は、大人のチャットコミュニケーションと子供のチャットコミュニケーションは全く別世界のものと考えておくくらいでちょうどよい。成人してからインターネットを始めた世代と、物心ついた頃からインターネットがある世代とでは、コミュニケーションに対する考え方もチャットに対する接し方も根本的に異なるのだ。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ともあれ、子供世代は何も悪気があって呼び捨てにしているのではないのだから、大人世代がことさら怒ったり嘆いたりすることはない。むしろ、小学生から「～さん」づけを省略してもらえれば、世代間交流の絶好の足がかりが出来たとして歓迎するくらいの度量があってもいい。もちろん、個人的に「～さん」付けをしてもらいたい場合は、その旨お願いをすれば良いと思う。敬称の使用の有無がルールでもって義務づけられているチャットではない限り、「～さん」づけをするかについての個人の希望は相互に尊重されるべきだからだ。したがって、お願いをしても言うことを聞いてくれない子供に対しては、強く注意してもいいだろう。ここからはマナー一般の側面が強くなっていくからである。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
いずれにせよ、大人世代は単に年上という理由だけで子供世代から「～さん」づけをしてもらって当然などとは考えないことである。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>語録</dc:subject>
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      <title>超克</title>
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      <pubDate>Sun, 15 May 2005 05:15:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2005-08-12T22:57:50+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　&#13;&lt;br&gt;
哲学史家は、しばしば「近代の始まり＝デカルト」であるとし、「ヘーゲル＝近代の完成」であるとする。ここで、ニーチェはすべてを疑うことから始めたデカルトの「近代的懐疑」を再び根本的に疑った。ここにニーチェの思想的特徴がある。そして、ニーチェはヘーゲルの哲学を敵視し酷評したが、もし「ヘーゲル＝近代の完成」という等式が成り立つとすれば、ニーチェがその相続人であろうとするヨーロッパの「自己超克」は、同時にヘーゲル超克でもあるはずであった。 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ニーチェの反時代、反近代化には、普仏戦争直後のドイツの文化的な軽佻浮薄さを目の当たりにしたことがあると言われている。すなわち、ヘーゲルが称賛して地上に姿を現した神とまでいう「国家」の成功に酔いしれる普仏戦争後のドイツ国民に呆れたのであり、幸福めがけて殺到する人々の野蛮さにも驚き呆れたのである。ニーチェは、そのような現状を合理化しかねない、ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」とする託宣に激しい反発の心を抱いたのであろう。 &#13;&lt;br&gt;
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また、ニーチェは生産と消費を至上価値とするアメリカ的メンタリティーは野蛮な精神喪失のニヒリズムであると非難した。さらに「全ての成功はその内に理性的必然性を含む」という自己主張も歴史の力への平身低頭に他ならないとまで言い切った。実際、近代主義は進歩発展の直線性とその忙しさにのみ歴史を求めてきたが、その本質が「他的なものはすべて制圧する」ものでああり「異なるものや他なるものの存在する余地を許さない」ものであるならば、やはりそのような近代性は哲学的に反省を迫られているのかもしれない。 &#13;&lt;br&gt;
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それはともかく、近所の野良猫が夜な夜なケンカするのは勘弁してくれんかのう。(´Д`&lt;br&gt;
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ASAHIネットがブログサービスを始めたので、申し込んでみることにしました（ただし、まだβ版なので機能も少ないですが、順次拡張されていくと思います）。 ここでは、日常の覚え書きを綴った日記、何かのテーマについて考えてみた語録を中心に載せていく予定です。 このようなページでも関心を持っていただけるならば、非常に有り難いです。(^^)　　&#13;&lt;br&gt;
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ただ、更新頻度はゆったりしたものになると思います。良くて週１回、せいぜい月１回くらいになりそうです。忘れた頃にアクセスしていただくだけで充分かと思います。&#13;&lt;br&gt;
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コメントやトラックバックは歓迎しますし、可能な限りレスをお返しいたしたく思いますが、これもまた週１か月１の非常にゆったりしたペースになると思います。申し訳なく思いますが、あらかじめご了承下さい。 &#13;&lt;br&gt;
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それでは、よろしくお願い申しあげます。m(_ _;)m&lt;br&gt;
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